会報ご紹介  

  < HOME
福岡いのちの電話について
お知らせ・催しのご案内
ボランティアの募集について
ご 支 援 の お 願 い
こ こ ろ 休 め て(リンク集)

福岡いのちの電話会報



コラム「風は西から」   終了
                   過去版1(1〜7号

  菊池 恵美 
  福岡いのちの電話理事、(株)メディアプラネット代表取締役社長

  このページは菊池恵美氏の逝去に伴い終了しました。」
  メディアから見える社会事象やワールドワイドな話題を,巧妙な文章で楽しませていただきました。心からお礼を申し上げます。そして、ご冥福をお祈りします。

         

  113号
2013年
4月1日
 
 

13.志を持ち続けるということ

 縁があって、長崎県の民放テレビ局で丸3年、仕事をした。同じメディアの世界だが、それまで生きてきた新聞社とは別次元。見るもの聞くもの新鮮で、貴重な体験をさせてもらった。日本でテレビ放送が始まって、ことしでちょうど60年になるという。そこに足を踏み入れて、民放のシステムそのものが「制度疲労」を起こしていることにも気づかされた。とりわけ、番組をつくり全国に流す東京のキー局と、人口減が進む中で他の系列局とのスポンサー獲得競争に明け暮れる地方局とのかい離は広がるばかりだ。
 例えば、ドラマ、バラエティの制作ではキー局は大都市圏の若者層にターゲットを絞った番組をつくる。流行に敏感で、購買力もあり、スポンサーがつきやすいからだ。ところが、九州はどうか。福岡都市圏は別にして、人口の高齢化、社会的転出が進む。離島の多い長崎県はその傾向が顕著だ。お年寄りは昔ながらの時代劇、ホームドラマを見たいのだが、午後の時間帯の再放送を期待するしかない。特番以外では新作はつくられないし、つくったとしてもスポンサーがつかない。お年寄りは新製品を買わないからだ。
 こうして大都市圏と地方の視聴率に大きな差が出てくる。それが局の屋台骨を支えるコマーシャル料金に跳ね返り、経営を揺さぶる。
 さらに、空からは東京直結の衛星放送の電波が降りてくるし、各地でケーブルテレビ局も勢力を広げている。視聴率という自分ではどうすることもできない数字と格闘しながら、スポンサー探しに走り回る、かつての仲間の顔が目に浮かぶ。
 それでは、いっそのこと局の数を減らせばいいかというと、そう簡単な話ではない。それぞれが報道機関であり、地方文化の担い手なのだ。独自のカラーを打ち出し、地域に根差した番組をつくっていくことに誇りを持つ局員はたくさんいる。情報の多様性はどんな時代、どこの地域でも大切なものだ。ただ、経営が苦しくなると、そうした番組づくりの意欲はそがれがちだ。自社制作をせず、キー局の番組を流している方がおカネはかからない。ケーブルテレビが優勢の米国ではニュースを含めて自社制作をすべて取りやめた地方局もある。
 民放から社会性のあるテーマを取り上げるドキュメンタリーが少なくなったといわれるようになって久しい。キー局は人気芸人が出演するバラエティ番組が花盛り。理由は同じだ。こうした風潮の中でも地道に、息長くドキュメンタリーづくりに取り組む地方局があることも初めて知った。それを経営もしっかり支えている。地方局の存在価値はどこにあるか、強固な土台が築かれているからだろう。要は苦境に立っても志を持ち続けるかどうかだ。そういえば、仕事をした局にも「風化は許さない」と雲仙普賢岳災害をひたすら追い続ける記者がいた。
 
 


 112号
2013年
1月1日

 

   


12.クールジャパンに学ぼう


 最近、テレビ番組に、やたらと日本語のうまい外国の若者が登場する。口をつくダジャレ、おやじギャグも堂に入っている。彼らの中には日本への留学はおろか、旅行さえしたこともない若者いるから驚きだ。暮らしに困らない程度に外国語を話せるようになっても、ダジャレで現地の人を笑わせるには、かなりの年月とその国への豊富な知識を必要とする。そうした「壁」をいとも簡単に乗り越えさせているのが日本のマンガだ。彼らは幼いころからマンガに親しみ、マンガで日本への興味をかき立てられる。毎年7月にパリで開かれるアニメやゲームの一大イベント「ジャパンエキスポ」には欧州各国から4日間で約20万人も若者が押し寄せる。
 インターネットがさらに世界を広げてくれる。ネットで日本のテレビドラマを見て、Jポップを聴く。そうして、ひらがなや漢字を覚え、日本に行かなくても、サブカルチャーから日本の伝統文化、匠の技へと興味を深化させていく。日本の若者が関心を示さない漆塗り、盆栽、里山、京の町屋づくりまでも、彼らにとっては「クール(かっこいい)」ということになる。そんな若者たちを見ていて、逆に欧米にはない日本の暮らしのつつましさ、文化の奥ゆかしさを再認識させられている。
 新年早々、なぜこの話題を取り上げたかというと、そろそろ私たちの暮らしのありようを根本から変えなければならないと思っているからだ。依然「電気料金が上がれば、工場は日本から逃げ出す」「公共投資の拡大こそが景気をよくする」と、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた、古きよき時代の価値観にとらわれた議論がまかり通っているが、このまま生産人口が減り続ければ、経済が沈滞する時代は確実にやってくる。
 英エコノミスト誌の予測では、2050年には日本のGDP(国内総生産)の世界シェアは10年の5・8%から1・9%にまで落ち込み、韓国の半分程度になるという。外国から大々的に労働力を補給しない限り、超高齢化社会の宿命から逃れることはできないのだ。
 モノがあふれる生活は望むべくもないだろうし、互いに支え合わなければ生きていけなくなる。そうした暮らしヒントが外国の若者たちが「クール」と
称賛するものの中にありそうだ。たとえば流行語にもなっている「谷根千」。東京都台東区の谷中、根津、千駄木あたりの下町を指す。江戸時代の長屋風の住まいが軒を連ね、軒先には花鉢や盆栽が並ぶ。かつての近所付き合いもそのまま残っている。今や外国人旅行者の人気スポットであり、その風情は外国人にとっても心地よく感じるという。
 離れていても人と人がネットでつながるデジタルの時代。それはそれで特長を生かしていくことが必要だろうが、隣人の息遣いを感じ取りながら、自然と折り合いながら生きていたアナログの世界の価値を問い直したい。その作業は外国の若者たちに教えを乞うことから始めるのがいいだろう。


 
         
 


 111号
2012年
10月1日

   
11.支えあいか、自己責任か


 米国の大統領選挙が佳境に入ってきた。投票日は11月6日。まもなく超大国を来年から4年間、率いる指導者が決まる。世界のリーダーを決める選挙だから国際政治や経済が争点になるかというと、まったく違う。有権者の関心は自らの暮らしに直結したテーマに集まる。毎回、候補者は「国内の景気拡大にどう取り組むか」を問われるが、今回はオバマ大統領が紆余曲折の末、導入した国民皆保険制度への評価が投票行動を決める大きなポイントだ。論争は建国の理念にまで及び、国民の「分断」は深まりつつある。
 米国にはこれまで貧困層、高齢者向け以外は公的な健康保険制度はなかった。働き盛りの人たちは民間の保険会社の医療保険に入る。ところが、この保険が曲者。きちんと治療にかかった費用をみてくれる保険はべらぼうに保険料が高い。大企業に勤める人たちは会社が保険料の面倒をみてくれるからいいが、自営業や中小企業で働く人たちはとてもそんな保険料は払えない。割安な保険に入ると、かかることができる病院は限られ、入院できる日数もあらかじめ決められている。たとえば、乳がんの手術なら5日といった具合だ。実際に、かつて住んでいたバージニア州の公立病院で、がん手術を受けたばかりの女性が医師の制止を振り切って退院していくのを目の当たりにした。
既往症があれば加入を断られるし、隠して加入しても後で分かれば支払いを拒否される。だから、米国民の6人に1人は無保険者。総数は4600万人に上る。米国の医療費は世界一高く、保険がなくても命を守るために治療を受けざるを得なかった人たちは、巨額の費用を支払うことができずに自己破産する。ハーバート大学の調査では、保険がなくて治療を受けることができず、亡くなる人が年間に4万5千人もいる。これが超大国の現実だ。
 「オバマケア」と呼ばれる改革で、医療保険への加入が義務付けられた。大統領は「(奴隷解放宣言をした)リンカーン大統領の業績に匹敵する」と自賛しているが、ライバルのロムニー共和党候補は「大統領就任初日に撤廃してみせる」と息巻いている。根底にあるのは、「加入義務付けは憲法で保障された個人の自由の侵害」という考え方。撤廃派は「病気になるのも自己責任。政府が口を出す事柄ではない。納めた税金を他人の救済のために使ってほしくない」と主張する。そこでは先進国で公的医療保険がなかったのは米国だけという事実も無視される。
 わが国の健康保険制度も人口の高齢化で試練のときを迎えている。医師会の肩を持つわけではないが、米国の現実を知れば知るほど、応分の負担と知恵を出し合い、「世界に誇れる制度」を守り抜く必要性を 
 
         

 110号
2012年
7月1日

   


10.本当に「住みやすい街 」なのか

 もう20年前のことになる。東京で記者をしていたころ、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんから、こう言われた。「この前、夫婦で福岡に旅行に行ったんですがね。空港から乗ったタクシーの運転が荒っぽくて。冷や冷やしました。私は怖くて、福岡ではとても仕事はできませんね」。「土地柄でしょうね」と笑って答えた記憶がある。その時は気にも留めなかったが、福岡の「荒っぽさ」を象徴するような出来事が相次ぎ、この話を思い出した。
飲酒した福岡市職員の不祥事が立て続けに起き、怒った市長が出した1か月間の「禁酒令」は海外にまで波紋を広げた。飲酒運転ゼロキャンペーンも繰り広げられているが、効果は今ひとつ。酒だけではない。福岡都市圏ではひったくりやコンビニ強盗が頻発し、警察は容疑者逮捕に躍起になっているが、なかなか解決できず、それが次の犯罪の呼び水になる悪循環に陥っている。福岡県内にまで広げると、暴力団による発砲事件はここ数年、ダントツの全国一。まれにみる「無法地帯」だ。
 福岡市は全国一活気のある都市といわれる。最近、若者に人気のある米国のファストファッションのブランドが東京に次いで出店。「大阪を飛び越してきた」と話題となった。人口は2035年までには160万人を超え、神戸を抜いて政令市中、第5位の規模になるとの推計が出た。何より15歳から64歳までの生産年齢人口は全国で20%も減るのに、福岡はわずか2%しか減らない。活気はこれからも続くことになる。何年か前には欧米の雑誌で「世界で住みやすい都市」の上位にランキングされた。
 こんな高い評価とは裏腹に、足元の「安心安全」が揺らいでいる。もう一つ、例を挙げると、自転車のマナーの悪さ。歩道をフルスピードで「そこのけ、そこのけ」とばかりに走り抜けていく。朝夕のラッシュ時はのろのろしか走れない車より、自転車の方に気を遣う。いくら活気があり、経済的に潤っても、住みにくい街になっては意味がない。世界的に見ても、住みやすさの指標は「経済的な豊かさ」から「自然環境」「安心安全」に移っている。米国で住みたい街のトップは常にニューヨークではなく、イチローがプレーするマリナーズの本拠地シアトルだ。
 私たちは「土地柄だから仕方ない」「そんなに目くじら立てなくても」と、心のどこかで荒っぽさを受け入れてはいないか。一人ひとりが住みやすさの価値を認め合い、追い求めていかないと、手遅れになる。ちなみに他の九州各県の犯罪発生率は軒並み低い。私が昨年まで住んでいた長崎は全国で35番目。荒っぽいのは九州だからではない。福岡だけが突出している。

 
         


109号
2012年
4月1日
 

   
 9.「立ち止まってみませんか」

 映画「三丁目の夕日’64」がヒットしている。シリーズ化されて3本目。今回は東京オリンピックのころの東京の下町が舞台だ。無理して買ったカラーテレビの周りに、近所の人も集まり、ソ連との女子バレー決勝戦に、熱狂するシーンも登場する。3・11の東日本大震災を機によく使われるようになった、人と人をつなぐ「絆」が当たり前のように存在していた。知り合いの結婚も出産もまるで地域のお祭りだった。
その時代から半世紀近く。グローバルスタンダード(世界標準)に合わせて、私たちの社会は日本特有の文化やしきたりをわきに追いやり、効率と経済合理性を追い求めてきた。他に道はないかのように、ひたすら走り続けてきた。行き着いた先が福島原発事故ではなかったか。自らつくり上げた虚構の「安全神話」によりかかり、外国の事故に学ぶこともなく、自然への畏敬の念も忘れていた。
 事故前、原発の安全性を論議する国の委員会のトップは「日本では長時間、全電源喪失に陥る事態など考えられない。考えていたら原発はつくれない」と自信たっぷりだった。最近になって、その人物が「対策をやらなくてもいいという言い訳ばかりに時間をかけていた」と自己批判したが、もう遅い。すでに国土は放射性物質に汚染され、二度と生まれ故郷に帰ることができない人たちを大量に生み出した。
 事故後の政府や東電の対応を見ていても「人間が核をコントロールするのは至難の業」と思わざるを得ない。哲学者の梅原猛さんはすべての核開発を「人間の分を超えた研究」と痛烈に批判、「太陽の恩恵をより多く受ける科学に変わるべきだ」と訴えている。欲望を満たすことのみ優先させる文明は捨てなければならないとも。
そうした指摘を受けるまでもなく、私たちが欲望のままに電気を使っているのは明白。便器に近づくと、自動的にふたが開き、冬はいつも便座も洗浄水も温かい。来日する欧米人はあまりの快適さに驚嘆する。慣れると当たり前になってしまうが「そこまでやるか」という気がしないでもない。
 昨年、若くてかっこいい国王夫妻が来日して、その名を知られるようになったブータンではGNH(国民総幸福量)を掲げて国づくりが進められている。「大切なのは物質的な豊かさではなく、心の豊かさ」という指針は揺るぎがない。国民の9割以上が幸福を実感しているという。かつて日本でも「つつましく」という言葉が息づいていた。「三丁目の夕日」の時代に戻ることはできないだろうが、一人ひとりが少しずつがまんすれば、安全なエネルギーに変えることは不可能ではない。ここらで、いったん立ち止まって、豊かさの意味を問い直してみてはどうだろう。

 
         

108号
2012年
1月1日
 
   


8、どちらが生きがいを実感できるのか

 昨年秋、カンボジアを初めて訪ねた。世界遺産の中でも人気が高い寺院群
アンコール遺跡で知られ、1970年代には共産主義を掲げた独裁政権によって、知識人ら200万人以上が虐殺された悲痛な歴史を持つ国だ。当時の人口は800万人だったというから、実に国民の4分の1が犠牲になったことになる。今も内戦時に埋設された地雷による爆発事故が絶えない。
 現在の国名は「カンボジア王国」。その名の通り立憲君主制の下で、インフラ整備や国内産業の育成など急ピッチで国づくりが進んでいる。首都プノンペンはビルの建設、道路の拡張ラッシュ。通りにはバイクや自転車が洪水のようにあふれ、信号機はほとんどないから、横断するのは命がけ。ちょうど昭和30年代、東京オリンピック直前の日本を思わせる光景だ。
人口1400万人のうち、半数が20歳以下という若い国でもある。その若者たちと話す機会があった。9割以上が仏教徒で農業国というお国柄もあって、表情は穏やかだが、目の輝きが印象に残った。「英語がうまくなって、将来は米国に住んでみたい」「日本語を身につけ、日系企業で働きたい」と、多くが海外に飛躍する夢を描いている。驚いたのはほとんどが流暢に英語を話すこと。高校の授業で学んだだけという。大学生ともなれば、まるでネイティブスピーカーだ。
 「欧米に追いつけ、追い越せ」と高度成長が続いていた時代、日本の若者たちも海外留学や駐在員にあこがれた。それが今はどうだろう。2009年の米国への留学生数は2万9千人と、前年比で14%の減少。これに対し、中国からの留学生は21%増の9万8千人。中国の場合、人口が比べものにならないから単純比較はできないが、日本より人口の少ない韓国が9%増の7万5千人。米国の大学関係者が「日本の若者はどうしたのだろう」と首を傾げている。商社や外務省でも海外赴任を避けたがる若手が増えているという。
 日本の場合、国内で仕事がないといっても、食うだけならフリーターで何とかしのげる。「英語は不得手だし、わざわざ外国に行って苦労しなくても」という思いが根底にあると専門家は分析している。物に囲まれて、そこそこの暮らしで満足している国と、貧しくても広い舞台で羽ばたく夢を抱ける国。いったいどちらが生きがいを実感できるのか。高機能だが、世界ではまったく使われていない日本の携帯電話を、他の世界から隔絶され生き物が独自の進化を遂げたガラパゴス島になぞらえて「ガラケー」というが、日本の若者も携帯電話の二の舞にならないか。プノンペンの喧騒の中でそんなことを考えた。

 
         
   <このページ先頭へ
   <HOMEへ


お問い合わせは「福岡いのちの電話」事務局へお願いします。
電話:092-713-4343 (平日 9:00〜19:00 
土曜 9:00〜15:00)
日曜・祝日は休みです 



福岡いのちの電話